自身が“道具”となっていくために。


5月に植えた稲たちは、おかげさまで、だいぶ大きくなりました。

水不足で苦しんだ春先・初夏から一転、今は雨が降りすぎてるような・・。

僕にとって“お百姓”でいることの何気ないうれしさの一つは、“体をよく使うこと”だったりします。

夏の炎天下や湿度が高い中での作業や、あっという間に大きくなる草を片っ端から薙ぎ払っていく作業、重い粘土質の土を掘り進めていく作業なんかは、ほんとに息も切れ切れ、体全体がしんどいものですが、でも、そうやって追い込むように体を使って、骨や筋肉を丈夫で維持できることは、うれしいことです。

一度出てしまったお腹は残念ながらなかなか凹んでくれないものの、引き締まっていく腕やふくらはぎを愛でることはちょっとしたよろこび、でもあるかな・・。

先日、再び能登の応援に行ってきました。今回は、16歳になった息子のまさやを一緒に連れてです。

支援活動にはその時々でいろいろな仕事がありますが、今回まず依頼されたのは、復興の過程で使っていきたいというキャンプ場の道路整備でした。

まさや「あぁ、道普請だ」。

そう、こんな感じの作業は、僕もまさやも普段の生活の中でよくやる事。

他のボランティアさんと一緒に、スコップやレーキを使って荒れた路面を掃除したり、ノコギリやチェーンソーで路肩に倒れた木を切ったり片付けたりしていきました。

まさやも、要領・要点よく最後の最後までしっかり作業してたことには、親としても

「さすが、いいじゃん!」と思いました。

(※慣れたもので、道路のどの部分が大事でどこを一番キレイすべきかをわかっていたのは、15人程いたボランティアさんの中で、実はまさやと僕だけだったと思う。郷に入っては・・だし、他の意図もあるかもしれないので、特に主張しなかったけどね、、)

ただ、後になって、
「あれって、ただの道掃除で、もしかして震災とは関係ないんじゃない!?」と、冗談半分で息子くん。

「え?ははは・・」

いやいや、違うんだよね。

復興の過程で使っていきたいというキャンプ場の道路だし、やるべき仕事がたくさん積み上がっている中で、地域から入った依頼を一つ一つ片付けていくことで、また次の仕事も進めることもできるし。

アリの目であると見えにくいけど、鳥の目を持てば仕事の意味も見えてくる。
物事は、ときに複雑だったりするもの。

なんであれ、ある状況において、自分自身を用いるということ

体を使うだけでなく、自分そのものを役立たせるということ。

田の土を掘るのに状況に適したスコップを選ぶように、自分という道具を状況に合わせて使う(または自分をうまく使える状況を選択する)。

好きとか嫌いとかやりたいとかやりたくないとか、刺激的な体験だからとか、新しい経験だからとか、そういうことではなく、求められる眼の前のことに対して、“自分自身を活かす”こと。

それができたから、いいじゃないか、まさや。

かつて、上皇美智子さまが行ったスピーチの内容を思い出します。

(一部引用)・・私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならない。人と人との関係においても。国と国との関係においても。

 子どもたちが、自分の中に、しっかりとした根を持つために
 子どもたちが、喜びと想像の強い翼を持つために
 子どもたちが、痛みを伴う愛を知るために
 そして、子どもたちが人生の複雑さに耐え、それぞれに与えられた人生を受け入れて生き、やがて一人一人、私ども全てのふるさとであるこの地球で、平和の道具となっていくために。

この山の中の毎日の生活や田んぼ仕事を通して、自分たちを「平和のための道具」として使えるように、鍛え、維持していこうと思います。

(わたなべまさゆき 2024年6月)

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