動いた心、通じ合った心を携えて。

だいぶ、おひさしぶりになりました。皆さま、お元気ですか?

年を越えてまもなく、大きな地震がありました。

こちらの地域でも、即時の対応はバタバタと焦りましたが、とりあえずのところ大きな被害はない様子。田んぼは雪がとけてからの確認になるけど、崩れたりしていないといいな。

1月8日から能登に家をもつ友人に付き添って応援に入りました。
道路が損壊したり、交通規制で迂回、迂回を繰り返し、長い時間をかけて七尾まで行き、友人宅の家の被災状況を確認したうえで、生活ができるように片付けを手伝いました。

大通りには、全国各地からの警察・救急・消防、自衛隊などの緊急車両が車列をなし、昼夜問わず事態に対応していました。

翌月の連休にもう一期間、七尾に応援に行ったときは、状況は一つ進み、民間の団体も支援に入るようになっていました。

僕は冬のアルバイト勤務や自分の仕事もあり、思うよう頻繁に行くことができませんが、支援の輪をひろげるために、ここ新潟から遠隔で、資金や人(ボランティア)の収集を手伝ったりしています。

一人、七尾地元で僕と同じようにお米づくりをする農家の若者と出会いました。

彼は、自身も被災しているにもかかわらず、直後から高齢化した地域を走り回り動き回って、さまざまな支援・復旧活動を、無休・無給でしているとのこと。

応援に入った2月の3日間、僕たちは彼にくっついて、崩れた家屋の瓦礫の片付け、災害廃棄物の回収や集積所までの運搬・スクラップ・分別などをしました。

彼は、淡々と僕らボランティアの作業を調整し、指示を出し、礼儀正しく、自らも身体をつかって働き、休まず、自身も被災者であることをまるで感じさせないほど気丈に振る舞っていました。僕たちがいた期間だけでなく、震災直後からずっと、です(そしてたぶん今この時も)。

僕は、心揺さぶられて眼の前の状況に必死となり、また、ここ新潟の山奥の米づくりで培った自分の身体や道具の使い方を目一杯つかおうと、できる限りがんばりました。
結果、冬の間になまった身体はギシギシとなり、また雨がちの中での作業で全身ドロドロになりました。(専門的なことはできないまでも、10年前の自分ならできる事や量はもっと全然少なかっただろうな、と思います。)

そして、そこにいれる時間最後の最後ギリギリ。まだまだ作業は果てしなく続くだろう中、僕はこれで作業をやめて帰らなければならないことがとても悔しく、申し訳なく、

「〇〇さん、ごめん、もう行かなくちゃだ、、本当に申し訳ない・・」

と言うしかなく、こみ上げてくる気持ちを押さえるのが精一杯。

でも、彼は「いやいや、本当にありがとう。一緒に、ドロ写真撮ろう」と言ってくれました。はじめて彼が自分から手を休めた瞬間だったと思います。

互いにドロドロになった姿で並び、写真を撮り、そして、僕は、自分の集落のお母さんから預かってきたお見舞いのお金とお品を彼に託して、握手をしたとき、

彼の目が潤んでいることに気が付きました。

あんなに孤高に気丈に、弱音吐くことなく、淡々と全力で働いていた彼の、束の間のゆらぎ。

3日間一緒にフルで働いた最後、はじめて何か心が通じた瞬間だったように思います。

「また来るからね、遠くからでもがんばるからね、いっしょにがんばろう」。

助け合いの活動の中で、心が動かされ、心が通じ、それが厳しい試練や難しい状況を乗り越えていく力になる、っていうこと。
大切なことを教わり得たと思います。

正直、この大切なことをこうして書こうとするまで、時間がかかりました。
勝手な気持ちを書いていいのか、勝手な思いを共有してよいのか・・。

能登では先の見えない生活をしている方々がたくさんいて、復興活動もまだまだ続きます。失われ、戻らないものこともたくさんあります。

少なくとも僕は、動いた心、通じた心を大切に携え、春を迎えて、またがんばっていこうと思います。

(わたなべまさゆき 2024年3月)

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